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長野地方裁判所飯田支部 昭和31年(わ)11号 判決 1958年7月25日

被告人 星山春次郎こと李漢洙

主文

被告人は無罪。

理由

(目次)(略)

第一公訴事実

被告人は、長野県上伊那郡辰野町大字辰野一、七九九番地赤羽末吉の居宅一部を借受け、妻星山末子名義でスマートボール遊戯場を経営していたものであるが、百余万円の負債があり且つ営業不振であつたので、予て見積価格約金五十万円の右店舗造作及び営業用什器について、前記妻名義で富士火災海上保険株式会社と金百万円の火災保険契約を結んでいたことを奇貨とし、これを騙取するため前記店舗造作、営業用什器等を焼燬しようと企て、昭和三〇年一二月一日午前三時頃、隣家高田宝代居宅に接着している前記店舗東南隅に設けてあつた賞品置場内に、セロフアン及びポリエチレンの袋に燈油約一合を入れ、これを新聞紙で包み装置して点火し、以て前記各居宅並びに店舗造作、営業用什器等を焼燬する目的で放火し因つて前記赤羽末吉等の現住する同人所有の家屋及びこれに隣接する前記高田宝代等の現住する住宅等四棟を焼燬するに至らしめた上、同月三日頃同町駅前みのわ屋旅館等で、前記会社東京支店損害査定主任後藤克成等に対し、他人の失火等に因る火災である様に装つて、前記保険金の支払を受ける手続を執つたが、未だ完了しない中に、前記犯行が発覚した為、右保険金騙取の目的を遂げ得なかつたものである。

第二放火の訴因についての判断

(一)  昭和三〇年一二月一日午前四時過ぎ(浅輪まつ証言―第一二回公判―は午前三時二〇分頃というが、措信できない)に、長野県上伊那郡辰野町大字辰野一、七九九番地地籍から出火して、近辺の現に人の住居に使用する建造物を焼燬するに至つたことは、司法警察員竹内元雄作成の実況見分調書(昭和三〇年一二月四日附、同五日附、同六日附三通を一括して、以下竹内調書と略称する)(第四回公判―以後略す―)上島久平、宮原幸武、株式会社八十二銀行辰野支店長、北原久子各作成の類焼届(いずれも、第二二回公判)によつて認められる。

(二)  出火の箇所は右地籍中、赤羽末吉方と高田宝代方の相隣接する両家の境界附近の部分であつた(前記竹内調書によつて認める)が、正確に特定する前に、先ずその場所的状況を概観しよう。当裁判所の検証調書(第三回公判)、竹内調書及びその附図第二ないし第六、赤羽末吉(第三回公判)、赤羽利子(第一六回公判)、高田吉富(第四回公判)の各証言を総合すると、赤羽方と高田方とはそれぞれ三間、四間半の間口を有する二階建家屋で、両家屋の側壁間に間口一尺九寸奥に入るに従つて狭くなる空地があり、これがなくなるとその先は板壁丈で仕切られていたこと、赤羽方の階下の道路に面した奥行五間の土間は(間口半間の横手通路を除き)、被告人経営のスマートボール遊戯場に賃貸されていたこと、遊戯場の奥の高田寄りの一劃には、遊戯場への改装に当つて押入が作られ、これは間口一間半、高さ約一間、奥行は右の空地の空間を一杯に利用し、高田方の土壁にベニヤ板を張つて奥の壁とし、内部の道路寄り半間は賞品置場として中段に棚を作り附け、間口一間半の中央の半間に板引戸を設けてその左右はベニヤ板を張つてある構造であつたこと等が認められる(押入の奥の壁についての右認定に反する浅輪まつ―第一二回公判、裴福植―第一三回公判―の各証言等は採用しない)。

(三)  出火が赤羽方か高田方かは、当時辰野町の人々にも両説があつて対立していた様である(森清市証言―第一三回公判―によつて認める)し、被告人、弁護人が高田方出火説を主張してもいるから詳細に考察して見よう。先ず、時間的に一番早い両家でのそれぞれの発見者の言を聴くに、

<1>  赤羽末吉(第三回公判)、同利子(第一四回公判)の各証言によると、当夜、同夫婦は階下の遊戯場に隣る六畳間で子供と共に寝ていたが、午前三時五〇分頃一旦目を覚し、再びまどろんで間もなく火のパチパチ燃える音を聞いて目覚め、怪しんで遊戯場を検した際、押入の上部右手ベニヤ板と引戸とにかかつて倒三角形の焼孔が開いて、外から炎の舌が覗いたのを認めている(即ち遊戯場の内部ではなく、外部の火が外から板壁を焼いたということになる)。他方、高田吉富証言(第四回公判)によると、同人もパチパチいう音で妻と共にとび起き、階段上の板壁の隙間から煙が出、その向うに火のあることを見ている(即ち高田家に対しても火は外部から板壁を襲つたことになるのである)。――然し、赤羽証言はともかく、高田証言は、高田方出火説もあつたことであり、現に高田家では火災保険金百六十五万円の給付を受けた(高田吉富証言―第四回公判―によつて認める)のでもあるから、直ちにこれを採用せず、他の証言を一応検討して見るのが妥当であろう。

<2>  証人中、高田方出火説をとる者は、浅輪まつ(第一二回公判)、森清市(第一三回公判)、星山末子(第一四回公判)の三人である。<イ>この三証言の証明力を争う為に、小沢清也、三浦直義、有賀幸男、小沢康秀、中谷孝、栗林安江、栗林是江、永山寔、小沢得男、横山建男、垣内三昇等火災初期に通り掛つた通行人又は現場に駈けつけた見物人の各司法警察員調書(いずれも、第二〇回公判)が提出されている。これらは前記の赤羽証言同様先ず遊戯場の押入の上部に炎を認めたり、後記の栗林証言同様赤羽方二階に先に火の手の上るのを見たりしているが、前第二節に認定した両家屋の位置関係即ち道路寄りでは二尺近く離れているが奥の方では板壁一枚で隣接していることや竹内調書及びその写真第一〇から明らかな高田方階下の奥の方は道路からは望見し得ないこと等を考え合せると、これらの見物人は両家屋が奥の方迄離れていることを前提として、遊戯場の火の気即ち赤羽方の出火と推断したことが窺われ、調書の数は多いが、必ずしも高田方出火説を覆すに足るものではない。そこで、前記三証言を個別に考察することとし、<ロ>先ず、浅輪まつ証言(第一二回公判)であるが、

<a>同人は被告人に後記第五節<1><ロ>の保険加入を勧誘し、保険会社外交員を紹介した当人であつたことが、同人及び添田悦孝(第一〇回公判)の各証言から認められ、従つて遊戯場からの出火では被告人が保険金を受けられなくなるおそれがあるのを嫌忌する心理にあつたと考えられるのみならず、<b>事件後「出火の原因は高田方の石油コンロの不始末からで、同家では有力者に運動して事件を揉み消そうとしている」という噂が流布したのは、同人が放つた流言に由来するものであつたことが、山崎明、松田治夫、矢ヶ崎克己、高田宝代(昭三一年一月二三日附)、矢ヶ崎はな、赤羽末吉(同月二五日附二通)、星野うきゑ、三沢茂雄、原里子及び同人自身の各司法警察員調書(いずれも、第二〇回公判)を総合して認められることに徴して、同人の証言は措信し得ない。<ハ>次に、森清市証言(第一三回公判)は、現場に駈け附けて先ず遊戯場に入つた時の印象と鎮火後の両家屋の焼け方の比較とを高田方出火説の主な根拠としているが、<a>同人が現場に達したのは二〇人目位だろうとは同人自身供述するところであつて、その点で既に、一番に駈け附けた後記栗林佐市の証言(第六回公判)等に比して価値の劣ることを感ぜしめるばかりでなく、検察官調書(第二〇回公判)において、遊戯場は煙が一杯で入れなかつたが、高田方は入れたから荷物を運び出すのを手伝つた旨供述しているのと矛盾している点も無視できない。<b>焼燬の程度は高田方の方が甚しかつたことは同人の証言をまたず、竹内調書の写真第一ないし第四を見ても明らかであるが、これは建築材料の相違、風向き、消防ポンプの放水の具合等によつて大きな影響を受けるものであること言うまでもなく、本件の場合、赤羽方のトタン屋根に対し高田方は板屋根であつたこと(竹内調書によつて認める)や放水が最初赤羽方に集中し、高田方に向つたホースが一旦断水したこと(中谷孝の司法警察員調書―第二〇回公判―によつて認める)等は――風向きの点は諏訪測候所長作成の気象状況調査回答書(第一七回公判)によるもはつきりせず、他に依拠し得るものもないが――高田方家屋の方がひどく焼けていたから火元であるという如き単純な論理の誤りを十二分に示しているというべきである。結局この証言も採用に値しない。<ニ>最後に、星山末子証言(第一四回公判)であるが、同人は火災当時現場に在つたものでなく、単に焼燬の程度からする高田方出火説を主張するに過ぎないから、前段に記した理由で、問題とするに足りない。他に被告人と同国人の証人で同様の口吻を洩らす者もあるが、同様にして採用できない。

<3>  一方、高田吉富証言には、これを裏付ける証拠がある。上島敏郎の司法警察員調書二通、検察官調書二通(いずれも、第二〇回公判)によれば、同人は出火直後庇伝いに――同人方は赤羽方とは反対側の高田方の隣家で一階の庇が継がつていた(竹内調書及びその写真第二によつて認める)――高田方と赤羽方との境迄行つて消火作業を手伝つているが、最初に赤羽方の二階に火を認め、消火中高田方の赤羽寄り板壁から火を噴いたことについて高田証人と同様の供述をしている。従つて高田吉富証言はこれを採用すべきである。

<4>  そこで前記<1>段に戻つて、赤羽末吉証言も高田吉富証言も正しいとすると、火は、赤羽方遊戯場からも高田方板壁からも外側にあたる箇所から発したわけになる。これと、高田方の階段上の板壁の裏手はあたかも遊戯場の押入の上方にあたること(竹内調書及びその附図第三、第四によつて認める)、高田方の赤羽寄り側壁の下部は土壁であるが上部は板壁であること(高田吉富証言―第四回公判―によつて認める)、赤羽方で助けを呼ぶ声を聞いて最初に駈け附けた栗林佐市は赤羽方の二階に火を見附け、次いで遊戯場内で前記赤羽末吉証言と同様の場所に炎を認めていること(同人の証言―第六回公判―によつて認める)等を考え合せると、出火点を両家屋の間にあつた押入内部とし、この内部から発した炎が赤羽方二階に燃え上り、同時に高田方の二階側壁に燃え移つていつたものと想定するのが最も無理のないところであるが、竹内調書の記載する両家屋の焼燬状況も略々この想定を裏附ける。そして右調書及びその写真第一八ないし第二五によれば焼燬状況から見て押入内の賞品置場下段がその出火点と推測される。弁護人は、この場所にあつた木箱(領置番号昭三一年証第七号の一)内に、焼け残つたセロファン及びポリエチレン袋(前同号証の六)が溶けかかつた硝子破片(前同号証の二二)や合成樹脂塊(前同号証の二四)と共に存した事実(竹内元雄証言―第四回公判―によつて認める)を不合理と難ずるが、後者は上から焼け落ちたとも見得るから、右の推測を覆すに足らない。よつて出火は押入内部からと断定し、その賞品置場下段が出火点であると推認する。

(四)  この押入には平生火の気がなかつたことは、賞品置場としての性質上、言うまでもなく、又内部に電燈線の配置のなかつたことは竹内調書によつて明らかであるから、漏電による失火の可能性もない(赤羽末吉証言―第三回公判―によれば、同人は火を見た時漏電と思つたと供述するが、この種漏電説に対しては山下経の検察官調書―第二〇回公判―参照)。従つて何らかの人為が意図的に加わらぬ以上押入内部から火を発することはないわけで、換言すれば、本件出火は何人かの放火によるものと言わざるを得ない。ところで、押入は被告人経営の遊戯場の施設であり、遊戯場正面出入口も横手通用口も押入の引戸にも夜分は錠が掛けられる(星山末子証言―第一四回公判―によつて認める)。従つて押入内部への放火については、ここに近ずく便宜を最も有していた筈の被告人が第一に嫌疑を蒙るのは当然のことである。

(五)  そこで、進んで、放火の事実と被告人との結び附きを詳細に検討しよう。

<1>  先ず、動機の有無が問題となる。<イ>被告人の経営するスマートボール遊戯場の営業状態は、被告人の検察官調書(昭和三一年二月七日附及び八日附)(第二五回公判)や星山末子証言(第一四回公判)では別に悪化していなかつた様に聞えるけれども、林憲郎、赤羽孝子、井口栄一、唐沢八雄、宮原幸武、広島昌、小林勇、伊藤良平、青木常松、松田治夫、佐々木健郎の各司法警察員に対する供述調書又は答申書(これらにより被告人が日用品の買掛代金支払にも窮していたことが認められる)(いずれも、第二〇回公判)を考え合せると、到底措信し得ず、むしろ赤羽末吉証言(第三回公判)によつて、遊戯場借用の家賃が当時四ヶ月分(金四万円)も滞つていたことが認められるのに徴しても、営業は不振だつたと推認し得る。又、その他の大口債務としても、姜聖九証言(第一三回公判)によれば同人に対し金五万円、鄭東弼証言(第一五回公判)によれば同人に対し金十二万ないし十五万円、崔泳[王允]証言(第一六回公判)によれば同人に対し約金十万円、松村平衛証言(第一八回公判)によれば塩尻商工業事業協同組合(その後身は長野県商工信用組合塩尻支店)に対し金五万円、関沢豊証言(前同公判)によれば同人に対し金六万円、尹万述証言(第一九回公判)によれば同人に対し金六万五千円、金井敏衛証言(第二〇回公判)によれば同人に対し金九千円等の支払債務あることが確認でき、被告人自身も検察官調書(昭三一年二月七日附)において、負債合計額は金百九万円位であると供述しその一部は自ら書面(領置番号前同号証の二七)に作成してもいる。右の債権者中には、証言において被告人と出身国籍を同じくする誼みから支払の催促には急でなかつたと供述する者もあるが、かりに然りとしても、残余なお巨額の債務につき被告人が支払に焦る状況にあつたことは優に認定できる。<ロ>ところで、火災保険申込書二通(領置番号前同号証の三四、三五)(第二五回公判)火災保険契約書四通(同号の二九)(第二一回公判)火災保険領収書九通(同号の三〇)(前同公判)添田悦孝証言(第一〇回公判)、同人の検察官調書二通(第二〇回公判)辻井彰善証言(第二一回公判)、同人の検察官調書(前同公判)、証人後藤克成尋問調書(第二五回公判)、浅輪まつ証言(第一二回公判)、星山末子証言(第一四回公判)、被告人の検察官調書(昭三一年二月四日附及び七日附)(第二五回公判)等を総合すると、被告人は、昭和二九年八月三〇日、浅輪まつの勧誘によつて、富士火災海上保険株式会社との間に、妻星山末子名義で、本件遊戯場の器具、什器、造作等につき、合計額金百万円の火災保険契約を締結し、昭和三〇年八月二三日期限の切れる前に更新して新規契約とし、火災当時契約は有効に存続していたこと、右契約額は、契約の目的物の価額を超えており、いわゆる超過保険であつたことが認定できる。<ハ>右の<イ>及び<ロ>を総合すれば、本件訴因中、負債に悩む被告人が失火を装つて火災保険金を手に入れようとしたことが本件犯行の動機となつたとの部分はこれを肯定する余地があるとせねばならない。

<2>  次に、検察官の主張するところによれば、被告人は、本件放火に先立ち、昭和三〇年五・六月頃李星斗と共謀して、遊戯場に放火して火災保険金を得ようとし、自ら発火装置を設備した上――いわゆるアリバイを作る為に自分の旅行不在中に――李星斗が直接点火する様同人に依頼して、ライターを渡したことがあつたというのである。これが認定し得るとすれば、確かに本件に対する有力な徴憑たるを失わない。然しながら、<イ>問題のライター(領置番号前同号証の二五)(第一〇回公判)は、李星斗から提出せられた(同人作成の任意提出書及び司法警察員作成の領置調書―いずれも第一〇回公判―により認める)ものの、被告人の指紋は検出せられず(鑑定人宮川一人作成の現場指紋採取報告書―第一三回公判―により認める)、その他これと被告人との間に些でも関係があつたと認めるに足る証拠は何もないのであるから、<ロ>結局右の李星斗との共謀云々の事実については、当の李星斗自身の証言(第九回公判)及び検察官調書(昭三一年二月五日附及び昭三二年二月三日附)(第二四回公判)の外には見るべきものがないのである。この李星斗供述の信用性についての検討は後第六節に譲つて更に別の角度から考察して見よう。

<3>  押入の焼跡中出火点と推定される賞品置場下段の木箱(領置番号前同号証の一)(第二回公判)からは、新聞紙の焼けたもの(同号証の七)(前同公判)に包まれたセロファン・ポリエチレン二重袋の焼け残り(同号証の六)(前同公判)が発見された(竹内調書、その写真二三、二六、二七号、被告人作成の任意提出書、司法警察員作成の領置調書―いずれも第四回公判―により認める)。<イ>等々力栄一郎証言及び同人作成の鑑定報告書(昭三〇年一二月四日附)、実験結果報告書(以上いずれも、第五回公判)によれば、これは燈油を右の袋に入れて新聞紙に包んだものが燃え残つた残骸と認められ、しかもその燈油は、被告人方で見出された(司法警察員作成の検証調書、捜索差押調書、その写真一〇号―いずれも第五回公判―により認める)一升壜入り石油(領置番号前同号証の九)(第二回公判)と同質のものであることが等々力栄一郎証言及び同人作成の鑑定報告書(昭三一年一月二七日附)(いずれも、第五回公判)により明らかである。この燈油入り袋は放火の手段として使用し得ること見易いところであり、その意味で重要な意義を有する。<ロ>然し、被告人は、検察官調書(昭三一年二月四日附及び六日附)(第二五回公判)において、これは遊戯場のストーブに使う薪を切る鋸(領置番号前同号証の一四)の錆止めに、自宅にある燈油を袋に入れて店に持つて行き、押入内に置いたものであると弁解しており、他の証言によつて直接その弁解を裏附けることには成功していない(原弘証言―第六回公判―、同人の検察官調書―第二〇回公判―、加藤かつ子証言―第八回公判―、金子春美証言―第一〇回公判―、同人の検察官調書―第二〇回公判―等参照。但し、星山末子証言―第一四回公判―、同人の検察官調書―第二〇回公判―は、燈油入り袋の存在は否定するが、鋸に油を塗つたことは肯定する)が、この鋸では薪が良く切れず、原弘が自分の鋸を持つて行つて貸しておいたという事実が、前記原弘、加藤かつ子、金子春美の各証言から認められるから、その弁解の様なこともなかつたとは言えない。<ハ>少くとも、この燈油入り袋についての被告人の説明を排斥して、これを用いて本件放火がなされたと断ずる為には、犯行が更に具体的に描き出され、その中でこれがどの様な役割を演じ、被告人のどの様な行動と結び附いたのかが、他の可能性への合理的な疑を排除するに足るだけに、証拠上動かし難く推認せられるに至るのでなくては、充分でない。

<4>  この要求に応えて、当初検察官の描いて見せた犯行の構図は、「被告人は、前夜この燈油入り袋を新聞紙に包んだものを押入内賞品置場下段の木箱内に仕掛けておき、帰り掛けに正面出入口の扉を鎖錠せずに置き、午前三時頃現場に来て、正面出入口から入り、遊戯場内部から通常通りに出入口の扉に鎖錠し、押入に入つて、内部で例の新聞紙に点火した後、押入から外に出るのにその上方へ抜けて、遊戯場の真上にあたる赤羽方の二階の一側に取り附き、二階に入つて窓から抜け出し、隣家宮原方の屋根又は庇へ出てから道路へ下り立つた。」というのであつた。後記の李星斗の検察官調書(被告人の自白を聞いたというもの)(第二四回公判)を除いては、直接この想定の全体を裏附ける証拠はなく、当該時刻頃現場で――その附近でさえ――被告人を見掛けた者もないが、幾つかの間接事実を証拠によつて明らかにし得る。<イ>前夜の行動について、被告人は「午後一〇時半頃店から出て妻と共にそばを喰べ、映画を見て同夜一一時半頃一緒に帰宅し寝に就いた。」と検察官調書(昭三一年二月四日附)(第二五回公判)において供述している。加藤かつ子証言(第八回公判)によれば、店の使用人だつた同人が被告人の妻末子と共に一〇時半頃先に店を出た時、被告人は残つており、同人が末子と宝来軒でそばを喰べている時、一〇分位遅れて被告人が来たことが認められるが、赤羽末吉証言(第三回公判)並びに同人及びその妻赤羽利子の各検察官調書(いずれも、第二〇回公判)によれば、同人等は、その時一人残つた被告人がスマートボールの釘を調整し、終つて同人に挨拶をして横手通用口から出て行く迄の数分間の物音を明確に記憶しており、その後末吉が通用口の鎖錠をしに床から起き出してもいるから、この時の被告人の単独行動は、時間的にも心理的にも、犯行に結び附く余裕がない。問題になるのは、宝来軒を出て加藤かつ子と別れて以後の行動であるが、前記被告人の供述と符節を合する妻星山末子の証言(第一四回公判)は、――辰野劇場で見たナイトショー映画を洋画であつたと供述しているが、岩田忠重の答申書(劇場側関係者の当夜の上映題名答申)(第二〇回公判)に照して誤りであると考えられるのに徴しても――それほど措信できない。むしろ原弘証言(第六回公判)、川窪ヨシイの証人尋問調書(第二三回公判)、同人の検察官調書(第二五回公判)によつて、ナイトショー映画の終つた頃自転車を曳いて妻末子と並んで本通りを歩いていた被告人が、西町通りとの交叉点附近で暫らく立話をして後、妻と別れ、妻だけが先に西町通りを経て帰宅したと認めるのを相当とする。即ち被告人はそれ以後単独行動を取つたと考えられる。<ロ>押入から上方へ抜ける為には、押入内部に天井があつてはならない。この点については、加藤かつ子(第八回公判)、金子春美(第一〇回公判)、清水正雄(第一五回公判)等遊戯場使用人だつた者の各証言や、金子義久の証言及び検察官調書(いずれも、第二一回公判)、奥平八郎証言(第二二回公判)、土田賢一の証言及び検察官調書(いずれも、第二三回公判)、等遊戯場改装に従事した大工達の諸供述を総合しても、あるいは曖昧であり、あるいは前後憧着し、あるいは相互に対立し合つて、確たる心証を得難いが、現場の取毀前の状況を忠実に記録したと認められる竹内調書、その写真一八号、これに基く竹内元雄証言(第四回公判)と、赤羽家の家附の娘で長くこの家に住み、改装前後の状況に通じた赤羽利子の証言(第一六回公判)とを考え合せると、この押入のあつた部分はもと二階へ外梯子の掛つていた場所で、改装に際し、梯子の下半分を取り外して上に押し上げ、下方を押入に囲つたものであり、二階の屋根で雨が凌げる為、押入自体には別に天井を附けず、ただ上辺に古材木を積み重ね渡してある部分があつた程度で、従つて、押入内部から上へ抜け出せないでもなかつたと認めるのが相当である(裴福植証言―第一三回公判―、星山末子証言―第一四回公判―等、これに反する証拠は採用できない)。<ハ>押入から二階へ抜ける径路を取ることには、二階が他人の占有場所であることに伴う心理的不安が避けられぬ筈である。然るに、あたかも犯行の二週間余り前である一一月一二日、赤羽家では老父の発病入院により、その時迄二階に寝ていた末吉夫婦が階下で寝ることになり、夜分は二階には人がいない状態だつたのである(赤羽利子証言―第一五回公判―によつて認める)。これが判つておれば前記の不安は解消し犯行に踏み切る可能性が増す訳であるが、この場合、赤羽家以外の者で右の動静を窺知し得る便宜を有する点では、間借人である被告人を第一に数うべきであろう。<ニ>これらはすべて被告人に不利な徴憑ではあるが、いずれも単に被告人に犯行への可能性あるを示すに過ぎず、高度の蓋然性を云為するには不足している。殊に、前段<ハ>の事情の如きも、入院以来既に二週日余を経ていれば、近隣或いは遊戯場使用人ないしその関係者等も、被告人に劣らず事情に通ずるに至つていたとも考えられないではなく、必ずしも被告人をのみ指向する証拠とは言い得ないのである。検察官は、又、現場で拾得領置された(被告人作成の任意提出書、司法警察員作成の領置調書―いずれも、第四回公判―によつて認める)南京錠(領置番号前同号証の二一)(第四回公判)が押入の戸の錠であり、これが押入の戸の金具に掛つたまま発見されていないのは、戸が鎖錠されなかつたこと、従つて、被告人が前記の様な行動径路を取つたことを示す――蓋し、押入の上方から抜ければ戸の外側からの鎖錠はなし得ぬ道理である――と主張するが、遊戯場内の銭箱(領置番号前同号証の三一)(第二三回公判)にも押入のと酷似した錠があり、鍵穴が曲つているか否かの違い(領置番号前同号証の二六の鍵二個―第一〇回公判―、同号証の三一の南京錠二個―第二三回公判―を比較参照して分る)であつたとする加藤かつ子(第八回公判)鄭万石(第一一回公判)、星山末子(第一四回公判)の各証言によれば、問題の錠が果して押入の戸の錠であるか否かは――これを銭箱の錠であるとする右各証言を直ちに措信せぬとしても――少くとも疑わしいし、かりに然りとすれば、何故に、外したまま掛けもしなかつた錠を現場に放置して手掛りを遺すの愚を演じたのかとの疑問を排除することができない。然しながら、逆に、押入の戸が外から鎖錠されていたと認むべき証拠もない(星山末子証言―第一四回公判―は、消防団が押入の戸を壊したのは鎖錠されていた為だと供述するが、熱気の為手が触れられなかつたからとも解せるので、採用できない)のであつて、犯行の可能性を否定することもできない。<ホ>ところで、ここに注目すべきは、被告人が火を点けたのが午前三時であるとされながら実際に火の燃え上つたのが見られたのは午前四時過ぎである事実である。前記実験結果報告書(第五回公判)によれば、本件燈油入り袋と類似の構造の物件を新聞紙に包んで木箱内に置いて新聞紙に点火した場合、三分ないし九分余の後には、袋が燃え残るか否かが問題となる程度に燃焼することが報告されており、室内屋外の条件の相違を考えても、点火後一時間後に燃え上る(或いは、それだけで一時間後まで燃え続ける)という様な現象は到底理解できない。従つて、新聞紙への点火を考える限り、被告人は午前四時頃即ち火の燃え上つたのが見られた直前にその行為をしたもの、即ちその時刻に現場にいたものといわざるを得ない。然るに、妻星山末子の証言(第一四回公判)は一応別としても、家主舞中直志、同居人上島興仁の各証言(いずれも、第一四回公判)によつて、火が燃え上つて直後半鐘やサイレンが火災発生を警報した時には、被告人は現場から、鉄道線路を隔てて約四〇〇米離れた辰野町大字辰野一、四八三番地舞中直志方の借室に寝装束でいたことが認められるのであるから、その様な行動は時間的に不可能であり、前記想定による犯行の可能性は、これによつて否定されるといえよう。

<5>  そこで、検察官は、訴訟後期に及んで、右の難点を回避し、被告人に可能な午前三時頃の行動と動かし難い午前四時過ぎの出火とを連絡説明ずける為の時限発火装置に関する新証拠を提出した。これがミルク罐及びその内容物――油を浸ませたぼろ布入りのポリエチレン製袋及び油を浸ませた綿紐(領置番号前同号証の三二)(第二四回公判)――である。<イ>等々力栄一郎作成の鑑定報告書(前同公判)によれば、この綿紐は、これを導火線の様に延して一端に点火すれば全部燃焼するに大約一時間二〇分を要すると認められるから、これを袋(この袋が先の燈油入りの袋と類似の性能を有することは見易いところである)と組み合せて用いたと想定すれば、確かに犯行の可能性を説明することはできよう。問題はその証拠価値である。<ロ>この綿紐と布入り袋とは、火災後一年二月を経て現場以外の場所である李星斗方で堀り出された(望月礼子作成の任意提出書、司法警察員作成の領置調書、司法巡査作成の発堀状況に関する報告書―以上いずれも、第二五回公判―によつて、認める)ミルク罐の内にあつたのであるから、時間的空間的には直接本件犯行に結び附く点がないが、<ハ>もしこの罐内の物件、就中この袋の中のぼろ布に含有されている油と先に焼跡から発見された袋の中の油との同質性が証明されれば、或いは少くとも先に被告人方から押収せられた(司法警察員作成の検証調書、捜索差押調書―いずれも、第五回公判―によつて認める)他の石油(領置番号前同号証の一〇)(第二回公判)との同質性が明らかになれば、この新証拠物は一応直接に本件犯行ないし被告人に結び附いてくることになるわけである。然るに、等々力栄一郎作成の鑑定結果報告書(第二四回公判)によれば、新しい袋の中の油は、綿紐のと同質の酸敗した植物油であつて、燈油石油等の鉱物油ではないのであるから、右の結び附きは物件そのものからは立証できないことになる。因みに、<ニ>この植物油を被告人に結び附ける供述としては、倉島あき子の検察官調書(第二五回公判)があり、これによれば、李星斗経営の料理店美波の台所の天ぷら鍋から被告人が火を通した食油(植物油)を持つて行つたというのであるが、同人の証言(第二五回公判)の内容及び供述態度を同人が李星斗の妾であること(右証言によつて認める)や後段の李星斗と新証拠物との特殊な関係等と考え合せると直ちにこれを措信することはできない。

<6>  この新証拠物と被告人とを結び附け、犯行を遺漏なく説明しようとするのが、李星斗の検察官調書(昭三一年五月一八日附、昭三二年二月三日附、同四日附、同八月三日附)(第二四回公判)(以下李供述と略称する)である。その要旨は「被告人は慎重に放火材料の実験を重ねた上、袋と綿紐とを一緒にしたものを二組作つて新聞紙包にし、これを前夜張徳夫(加藤かつ子の夫)に渡して遊戯場内に置く様に頼んだ。徳夫は言われたとおり届けたが、置いて来る時包の中から一組だけを持ち帰つた。これを自分が受け取つてミルク罐に入れて自宅の軒下に埋めておいた。」というにある。<イ>然しながら、この供述に対しては、例えば、<a>何故に他人を利用して袋と綿紐とを店に届けさせる必要があつたのか。秘密と慎重を要するかかる犯行に事情を知らぬ他人の行為を介在させる危険を冒すだけの理由があつたか。先の李星斗へのライターの手交の場合には、アリバイの作出というそれ自体としては一応肯ける理由があつたが、この場合それがない。むしろ、共同者に失望した被告人が単独犯行によつてアリバイを作る為に時限発火装置を考案した筈ではなかつたか。<d>何故に同じ様な物を二組作つて届けさせたか。この放火材料の性質上現場に臨んで両方を試すことはできぬから二組用意することは無意味ではないか。<c>殊に燈油入り袋と食油入り袋との二種類を用意したのは何故か。実験によつて最良の放火材料を研究したなら、結論は一種類になるべきではないか。<a>張徳夫は何故に新聞紙包の中に二組ある中の一組だけを持ち帰つたのか。包の中を見ながら、その使用目的に想到しなかつたのか。したとすれば、何故一つだけを残したか。……等々疑問が続出し、供述内容それ自体に甚だ不自然なもののあることを感じさせるのみならず、<ロ>供述相互間に、又他の証拠との間に、例えば、<a>袋の内容物は、供述では、石油(昭三一年五月一八日附調書)とあつたり、ガソリンを浸ませたぼろ布(昭三二年二月三日附調書)とあつたりするが、実際堀り出されたミルク罐内の袋の油は<5><ハ>段前記の様に鉱物油ではなかつた。<b>供述には、導火線の実験をした結果、針金に綿を巻きつけて途中で火の消えることのない様にしたとあるが、現実には、ミルク罐内の綿紐には針金は附いていないし、焼跡の油入り袋のそばにも別に焼けた針金などは発見されなかつた様である。導火線の実験の結論に反するものを何故用いたのか不審である。<c>張徳夫が新聞紙包を持つて店に行つたのを午後一〇時過ぎと同人から伝聞した旨供述している(昭三二年二月三日附調書)が、先に<4><イ>段において見た様に、一〇時半迄は遊戯場には被告人の妻も店員もいた――更に赤羽夫婦も階下で眠らずにいた――のであるから、この時刻は全く信用できない。別に一一時頃との供述もある(昭三一年五月一八日附調書)が、然らば供述相互に矛盾がある。……等々幾多の撞着が見出される。そして、<ハ>一番肝腎な、本来右の李供述と相蔽うべき張徳夫の証言(第二五回公判)は、真向から李供述の内容に反対しているのである。<ニ>以上考察の結果を総合すると、結局、新証拠が被告人の犯行に結び附くか否かは、前示の様々な疑問も難点も払拭できる程の信用性をこの点の李供述に期待し得るか否かにかかつてくることになる。この信用性についての検討も後第六節に譲つて、更に

<7>  自白の点について考察しよう。被告人の捜査官憲に対する自白調書はもとより存在しないが、<イ>初め、被告人作成の妻宛の朝鮮文字の手紙(領置番号前同号証の一五)が提出せられた時には、これは被告人が留置場で死を決意して書いたもので、犯行を認めた文言を含むとの触れ込みであり、酒井通雄作成の右手紙の翻訳書につき、併せて証拠調の請求がなされたのであつた。然るに、同人の証言(第一一回公判)によつて、その翻訳では左から右に読むべき朝鮮文を右から左へ訳していることが明らかとなつた結果、検察官は右翻訳書の証拠調請求を撤回するに至つた。そして、翻訳人金曙峰の供述(第一二回公判)によれば、この手紙は、成程死を決意して書かれたものではあるが、犯行を自認する如き文言は全く含まれていないことが認められるのである。<ロ>更に、本件火災後三日目である昭和三〇年一二月四日、辰野町大字辰野一、六六六番地成道生方に、辰野在住の朝鮮人達の中、右成道生、申用雲、李性完、金太奉等が、李星斗及び被告人と共に集合した事実が、成道生(第七回公判)、李性完(第八回公判)、申用雲(第二一回公判)等の各証言によつて認められるが、右各人の検察官調書(成道生、李性完―いずれも、第二〇回公判、申用雲―第二一回公判)の中には、この会合において、李星斗が前記ライターの一件を曝露した結果、被告人が本件放火を自己の犯行と認めて皆に詑びたとの趣旨に読める供述が録取せられているけれども、仔細に検討すれば、一同は話が本件の火災に落ちるのを意識的に回避し、具体的な話は李星斗と被告人との間でする様に仕向けたことが認められるのであつて、その場の雰囲気から彼等が感得したところはともかく、その際被告人の自白がなされたと見るのは穏当でないと思われる。<ハ>その李星斗自身は、証言(第九回公判)及び検察官調書(昭三一年二月五日附、同五月一八日附、昭三二年二月三日附、同八月三〇日附)(第二四回公判)において、右の会談から、被告人と二人で席を外し、同人経営の料理店美波の二階で一晩中話し合つて、本件犯行の詳細について自白を受けたと供述している。かくして、又しても、同人の供述の信用性が問題となつて来るのである。

<8>  以上具さに検討したところによると、被告人が本件犯行をなすに至る動機も可能性もあるけれども、他の可能性への合理的な疑を排除するに足るだけの、決め手となる証拠は、李供述及びその信用性によつて証拠価値の左右せられる物的証拠以外には遂に見出し得なかつたということになる。

(六)  そこで、最後に、問題の李星斗の供述を考察の対象とすることにしよう。

<1>  成道生(第七回公判)、鄭万石(第一一回公判)、姜聖九(第一三回公判)、裴福植(前同公判)等の各証言を総合すると、昭和二八年頃、被告人と李星斗とは裴福植等と茅野で射的屋を共同で営業したことがあつたが、収益の分配に絡んでいざこざが起り、被告人は李を二度程撲つたことがあつた。後、被告人も李も辰野で営業する様になつて、普通の交際に戻つたが、被告人が遊戯場を鄭万石と共に経営していた昭和三〇年九月頃(本件火災の三ヶ月程以前)、李が鄭と喧嘩して撲つて怪我させ、鄭の告訴によつて李が勾留された時、同人は被告人の妻が警察に対して自分を悪し様に言つた(その真偽はここでは措く)と信じて、被告人に対し含むところがあつた。この様な経緯の存したことが認められる。ところで、<イ>李が被告人から放火の為のライターを渡されたというのは、昭和三〇年五・六月頃即ち右の鄭との事件よりは以前であるが、もとより茅野での事件以後のことである。李の証言(第九回公判)では、茅野で撲られたことは水に流し、恨んでいなかつたというが、成道生証言(第七回公判)で認められる様な鄭との事件以後同人が被告人に対して持つた強い復讐意欲に徴しても、そんな淡泊な気持ではなかつたと思われる。通常の交際はともかく、放火という容易ならぬ重罪を共謀するのに、この様な相手を選ぶのは不自然の感があることは否めない。従つて共謀の点に関する李供述の真否は疑わしいといわなければならない。更に、<ロ>被告人から自白を受けたとの供述は、一層措信し難い。鄭との事件を経て既に犬猿の間柄になつている相手に、犯行の一切を告白することの危険は言うまでもないのに、この場合被告人としてその危険を冒してでも告白せねばならなかつたと認めるに足るだけの必然的理由に乏しいからである。

<2>  李供述によると、同人は本件出火の直後である午前六時には早くも警察に架電して、放火であると密告している。同人が正義感のみからこの行動に出る人柄でないことはその供述自体からも明らかなのであるから、この密告は――出火場所から見て早晩被告人への嫌疑が生ずることを前提として――何らか為にする陥穽を意味するのでなければ、被告人への執拗な復讐心を示す以外の何物でもない。これを前<1>段認定の事実と考え合せれば、本件における李星斗は、いわゆる「敵意ある証人」であり、その供述の総体はかかるものとして受け取られねばならぬと考えられるが、これが、前記第五節<6><ニ>において新証拠物に関する李供述に対し要求した高度の信用性とは相離れること遠いものであることは言うをまたないであろう。

<3>  結局、先の共謀についての、新しい証拠についての、自白についての各李供述は、いずれもその内容を証拠とするだけの信用性を欠くものと判断せられる。

(七)  李供述を証拠から排除してしまうと、上来説示の理路(第五節<2><ロ>、<6><ニ>、<7><ハ>、)から、被告人の放火の行為について合理的な疑を挿む余地があることになり(第五節<3><ハ>、<8>)、これを覆して確信を生ぜしめるに足る他の証拠もないから、結局、本件放火の訴因については犯罪の証明がないことになる。

第三詐欺未遂の訴因についての判断

詐欺未遂の訴因は、被告人の放火の行為の成立を前提としているところ、右のとおり放火について犯罪の証明がない以上、詐欺未遂についても、その余の証拠を按ずる迄もなく、やはり犯罪の証明なきに帰するといわなければならない。

第四結論

放火についても、詐欺未遂についても、犯罪の証明がないから、刑事訴訟法第三三六条により被告人に対して無罪の言渡をなすべきものである。よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 山本五郎 宗田義久 倉田卓次)

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